昭和四十五年九月五日


x 御理解第六十五節
「日柄方位は観るに及ばぬ、普請作事は使い勝手のよいのがよい家 相じゃ、よい日柄というは、空に雲のない、ほんぞらぬくい、自 分に都合のよい日が、よい日柄じゃ、いかに暦を見て天赦日じゃ と云うても、雨風が強うては、今日は不祥のお天気じゃと云うで はないか、日のお照らしなさる日に良い悪いはないと思え」


金光様の御信心を頂くようになると、一番に教えられるのが、こゝのところだと思います。
 お道の信心をしない人達は、まあほとんどが、この日柄方位といったようなものに、ひっかゝっております、又、それは当然、そうするのが当たり前、普請作事の時でも、家相を見てもらうとか、とゆう事はもう、当然の事のように思うておる。
 それを、云う事の狭い心であると、ゆう事を教えておられる、
天地の中に、天地の親神様が、お恵みに洩れる、とゆうところはない、だからこそ、日柄もなければ方位もない、只有難いそれを、人間が勝手に日柄を作ったり、方位を作ったりして、それにひっかゝって、進むところにも進めないとゆうような、おろかな事をしてはいけない、、迷信にこだわってはいけない、とゆうような事を教えられます。
 それが段々、信心を頂いて参りますと、それが本当にそうだとゆう事が、分かって参りますけれども、それでもなお、十年も二十年も信心しておっても、矢張りそこから、抜け切らない人もある。
 けれども、これはもう大変な、天地に対する御無礼ですねえ、
例えば普請をするのに、日柄方位を見らんとゆう事は、いゝですけれど、それかと云うて、そんなら天地の親神様の、お許しを頂かんとゆう事は、こんな御無礼な事はない。
 我まゝ勝手に、自分の地所だからと云うて、自分が建てる、本当にそこのところは神様へ、例えば地鎮祭とゆう、これは一般でもやりますけれども、金光様の云う、地鎮祭とゆうのはそうじゃない。 天地の親神様のお許しを頂いて、そこに建てさせて頂くとゆう、お願いをさせて頂く、お祭りなのです、祓うといったようなもんじゃない。 だから、それを平気でやるような事では、それは横着ですわねえ、俺が地所に家を建てるには当り前、どこ迄も、天地の親神様の道として、そこのところを、実意丁寧に、行届いていくいき方を、教祖は教えておられる。
 日柄方位と、普請作事といった事に、これはもう、自由自在と云うか、使い勝手の良いのが、良い家相じゃとゆう風に、本当におゝらかな教えであります、又、事実そうなんです。
 ですから、私共、そこんところがね、まず天地の親神様の、お働きとゆうものは、そうゆう事を分かる事なんです、天地の親神様の心が分かるとゆう事は、そうゆう事が分かる事、いわゆる、心の中に、言わば自分で自分の心から、世間を狭うしてしまうような考え方を、まず捨てなければ、
 そこでね、こうゆう御教を頂きますと、金光様の御信心は、非常にどこにもひっかゝりのない、大きなおかげ、云うなら天地に通ずる道があるとするなら、天地に交合う、いわゆる天地の大道だと、それをお道の信心では、眞の道と云うのである。
 だから、眞の道に出らせて頂く、そこには、なんのひっかゝりもない、よい日柄というのは、空に雲のない、ほんぞらぬくい、自分に都合のよい日が、良い日柄じゃと、自分の心の中が晴々しい、自分の心が有難い、自分に都合の良い心が温い、こゝのところは、そうゆう風に頂かにゃならんだろう。
 自分の心が言わば、温い親切心でいっぱい、自分の心の中に、只有難いものがいつぱい、そうゆう時なら尚更の事、何をしても良いもう一切がおかげになるのですよ、そうゆう心の状態の時が、だから良い時なのです。
 いかに天地の親神様の、お許しを頂いて、普請をするとか、作事の事にでも、日柄方位を調べたとゆうだけではなくて、そうゆう事はしなくても、自分の心に、そうゆうひっかゝりがない、自分の心を狭う考える事がない。
 ですから、金光様の御信心頂いておっても、何か心にひっかゝる事がある、心に有難いものが湧いてこない、心に不安がある、そうゆう時には、私はいけないと思います。
 どうも、自分の心にひっかゝり、それが日柄とか方位とか、ゆう事じゃなくてです、自分の心が、どうも晴れやかでない、いかに、そうゆう自由無碍な生活の出来れる、天地の中に、私共がお生かしのおかげを頂いておっても、自分の心が晴れやかでない、自分の心が真っ暗、自分の心がイライラ、モヤモヤと、ゆうような時にはです、これは何をしても良くないと、まず思わなきゃいけない。
 私は、自動車の運転をなさる方達に云うのですよ、もう、イライラモヤモヤする時には、自動車に乗りなさんな、ろくな事はなか、本当に、自動車に乗ったら、ハンドル握る前にまず合掌でも出来れる、豊かなゆとりのある、それでなからにゃでけん、とゆうのは、そうゆう訳なのです。
 もう神様の、いわゆる天赦日と、こゝに云うておられますが、神様にお許しを頂いた日、神様にお許しを頂いた御土地と、例えば、そうゆうような事だけで、自分の心がイライラモヤモヤとしとったら、矢張り、それがいろんな、失敗の元になっとったり、それが、たまり たまって災難を受ける元になったり、自動車で云うならば自動車事故でも、ひき起す時はそうゆう時なんです。
 御無礼が出来ておる時なんです、自分の心の上にです、いわゆる都合の良い、いわゆる温い、云うなら曇けのない、スキッとした、何とはなしに有難い、只今から、自動車に乗らせて頂きます、運転させて頂きますと、そうゆう ゆとりでもある時、心の中に、そうゆう時ならば、天赦日じゃと思うて間違いない。
 昨日、日田の綾部さんが大型の車で、息子さんと参ってきた、朝の御祈念に間に合わんならんと、一心に向うて来よったけれど、ちょっと遅うなった。
 それで今日は、どげんスピ―ド出したっちゃよかばい、今日はもう神様のお参りの事じゃから、と云うたから、兎に角あの大きな車ですから、百八十から出して来た、それはもう乗っとって、目がまうごとあった、そうゆう時には、いわゆる自分の心に曇けがない、だから今日のごたる日は、もう絶対、おまわりさんにも見つかりっこない、今日は天赦日じゃと、ゆうような心があるからです。
 だから、帰りはそんな事ではいけない、法を犯す訳ですから、けれども、今日はもう、許されて参りよる、しかも朝の御祈念に、お参りさせて頂く事を許されなければ、とゆう一念がね、言わばそこに、今日は、天赦日といったような心が生れてくる。
 今日はいくらスピ―ド出したっちゃよかよと、ゆう安心が生れてくる。 話を聞きますと、百八十も出しますと、もう、少しカ―ブの所なんか、実に危険だそうですねえ、それをやっぱり日田からこゝ迄、百八十出しっぱなしで飛んで来ておられる、おかげで朝の御祈念ぎりぎりに、間に合わせて頂いたと云うのである。
 ですから、この辺のところは皆さん、スッキリ 頂いてもらいたい、日柄方位と世間の者が云うけん、やっぱせにゃ、もしもの事があったら、笑われるけんとゆう、そうゆう信心ではね、金光様の信心は頂かれませんです。
 いわゆる、それが本当に御無礼になる、ですから、その辺のところはスッキリと、すると同時に、今日、私はこゝのところは、自分の心の中に、成程天地には、何のとどこおりもないのです。けれども自分の中に、とどこおりがあってはならないとゆう事、自分の中に、ひっかゝるものがあってはならない。
 神様に許されて、いわゆる毎日毎日が天赦日じゃ、と思える位のおかげを頂く為に、日々信心の稽古をさせて頂いておる、今日も有難い日を迎えさせて頂いて、有難い、と、これなんです、今日も結構な日暮しのおかげを頂いて、有難うございますと、例えば一日をしめくゝる時に、お礼の云えれるその心なのです。
 そうゆう心で、事がなされる時です、それが成就しない事がある筈がない、そこを私共は、そこにひっかゝり、こゝにひっかゝりする、自分の心にひっかゝる。
 そこに信心は、日々の改まりが第一、とゆう事になってくるのです。 何がこうイライラするか、何がこうひっかゝるのか、どうもひっかゝって、ひっかゝって、  そうゆう、私はおかげを頂いてもらわにゃ、いけんと思うね。
 勿論、言わば、天地の大道につながるとゆう事、私共は、本当に日々が神様に許された毎日であり、毎日許された道を、闊歩しておるんだと、いわゆる これは、こうゆう心の状態とゆうのをね、私は大きなおかげの、受けものだと思いますね。
 皆さんが大きなおかげを頂きたいでしょう、だから、大きな心の受けものとゆうのは、そこにひっかゝり、こゝにひっかゝりするするような、受けものがあって、大きなおかげの、受けられる筈がない、全然ひっかゝりがない、そうゆう心の状態が、大きなおかげの受けもの、それこそ天地程の、受けものになってくる訳です。
 心に曇気がない、心に濁りがない、心がいつも温い、とゆう、そうゆう言わば、おかげを受けるのに都合の良い、心の状態とゆうものが、そうゆうもの。
 昨日、私ある方のお取り次をさせて頂いた時、頂いたんですけれども、蚊取線香がね、普通は横にしてありますよね、ところがね、あの 蚊取線香が立てに建ててある、成程、煙も出て、燃えてもおるですけれどもね、ちょっと こうおかしいなあ、どうゆう事だろうかと私は思うた。
 御理解頂いたらね、こうゆう事なんです、蚊取せんこうのお知らせは、馬鹿と阿呆になる時のおしらせなんです、あれは左巻きだとゆう訳なんです、あら ちったおかしいなと云う時、あん奴は、蚊取線香のごたると云うでしょうが。
 だから蚊取線香になる事、云うならば、人が馬鹿と云うてもひっかゝらん、腹の立つような事があっても、腹が立たん、それは心が馬鹿程に大きいからですよ、今日の御理解で云うと、ひっかゝらない、だから結局私共は、左巻きにならせて頂くと云うか、蚊取線香にならせて頂く稽古を、一生懸命させて頂くとゆう事がです、兎に角人が、特に人間関係の上では、どうゆう事があっても、どうゆう事を云われてもです、それを、いわゆる馬鹿と阿呆で受けてゆこうとゆうのが、それなんです。
 そうゆう受け方は、自分の心の上に、楽だけではなくて、患しい事がなくなっていく程の、おかげになってくるのです、それが素晴らしい。  自分が馬鹿になっときゃ、豊な心になれるとゆうのではなくて、言わば燃えておるならばです、蚊がボトボトそこに落てる患しい事がなくなってくる。
 馬鹿になっときゃよかけんでと云うて、歯をくいしばっておる馬鹿になる事ではね、それは蚊取線香ではあろうけれども、火がついてないのです、それじゃ馬鹿になっておるとゆうだけで、患しい事が落ちて、無くなるとゆう事はない。
 そこんところを皆さんは、日々稽古をなさっておられる訳なんです、本気でひとつ、馬鹿と阿呆にならせてもらおうと、本気でそこに馬鹿と阿呆にならせて、もらうところにです、豊な心、しかも信心の熱情がある時でないと、仲々馬鹿になれない。
 その熱情が燃えきっておる時、思いもかけない、例えば災難が、起きてきようとしておっても、その災難を未然に防ぐ程しの、おかげが受けられる、いわゆる煩わしいとゆう事が落ちてしまう、蚊が落ちてしまうように、もう私の行く手に、歯痒い事やら、腹の立つ事やらなくなってくる、とゆう程しの言わば、功徳があるとゆう事なんです、馬鹿と阿呆になるとゆう事は、そこは皆さん分かりますね、又そこを皆さんは、日々取り組んでおられる訳なんですね。
 ですから、私が昨日頂いたのは、縦にこうやっている。
だから皆さんが人間関係の上に、そのようないき方をさせて頂いておるとゆう事は、横に置いてある蚊取線香と云うならね、縦にとゆう事はねね、これは、神様、私、皆さんとゆう事だと思う。
 だから私は、それを頂いて思うた、もう確かに合楽の場合ね、そうゆう稽古を、皆さんがしておるけれどもね、信心が段々、少しばっかり巧者になってくるとです、もう神様とかね、親先生とかゆうところにはね、非常に、ドライになってくるですね、これは、もう不思議な位に
 もう私は、それを頂いた時に、本当にそうだと思いました、いやそれを、自分達が云うておる事を、本当の事のように、理屈を付けてですね、無理に自分たちの方が、ほんなこつのように云うです、親先生はあげん云いなさるばってんかと、
 だからこゝのところはね、神様の前にも、親先生の前にも、お取り次を頂かせて頂いての事ですから、本当に、神様の前にも、馬鹿にならにゃならん、親先生の前には、馬鹿と阿呆にならにゃいけんと、ゆう事なんです。
 確かに初信の時には出来てます、親先生が仰った通りにすると、ゆう事が出来ておりますけれど、少うし巧者になってくると、もうこれは合楽でも、指折り数えてごらんなさい、この人達は、もうこゝの中堅、この人達と、例えば指折り数えられる程しの人達が、いわゆる神様の方へ、忠実でない、教えが段々身についてきて、巧者になって、いわゆるおかげを頂くコツあいだけは、段々出来てきたけれど、親先生が云われる事なんか、もう右左にしてしまう。
 いわゆる縦横のつながり、いわゆる縦横の、馬鹿と阿呆でなからなければ、いわゆる完璧な馬鹿と阿呆で、なからなければいけないとゆう事。
 私はね、本当にこゝのところをね、合楽では徹底して、いって下さる方達が出来なければ、本当の皆さんのおかげにも、合楽の本当の繁昌にも、つながらないと思う。
 出て来いと云うても出て来ない、自分はそして、ひとかどの信心をしておるつもりである、そんな事じゃいけんよと云うても、いっちょん、そげな事ではいけんと思うていない、そこのにきには、いわゆるドライになっておる信心が、割り切っている、割り切っているから、自分の心にひとつも、ひっかゝらない訳ですよねえ、
 今日の御理解で云うと、例えば悪い事をしてもですねえ、そこにひっかゝらんで済む方法、とゆうものを体得しとる、そうゆういき方もある、ひっかゝりさえしなけりゃえゝ、先生があげん云いなさるけれども、いっちょんひっかゝらん、ひっかゝらんから、云う事聞かん、けれどもこれは、どうゆう事になるでしょうか。
 もう信心はそこ迄、とゆう事になるですねえ。
私共が場合によってはです、やはり、割り切らなければ、ドライにならなければ、やりきれないような事があります。
 けれどもね、そこのところを ひとつお互いが、本気でですね、昨日、私が頂いて、改めて思わせて頂いたんですけれども、信心が巧者になればなる程にです、もう親先生の仰る事には、一分一厘背くような事があってはならない、と、
 目がつまっていかなければならないのにです、信心が巧者になってくると、私に接近してくるようになると、………
 こうゆう事でしょうねえ、接近するでしょう、接近するもんですから、もう頭が下げられない、適当に離れておった時には、結構に頭が下げられよったけれどもね、あんまり接近したから、もう頭が下げられなくなってきた。
 親先生の、云うなら人間大坪、親先生でちゃ とゆう風なところが出来てくる、親先生でも平気で、云うなら、平気で意見もしてもらわにゃなりませんけれども、それが、平気でひっかゝらずにできる、とゆうような事になってくる、そうなるとですねえ、もう本当に、今日のこゝのところにも有ります、大きなおかげを頂かせて頂く為にはね、どうでも、対人間の場合にも、お互いが馬鹿と阿呆になってるなら、神様の前にも、親先生の前にも、ひとつ本気で、馬鹿と阿呆になろうじゃないか とゆう信心がね、どうでも必要だなあ、でなかったら、例えば教会と共に、大きくなっていくゆう、おかげにはならん。
 教会が発展していくなら、自分の家も一緒に、発展していくとゆう事にならない、自分の自己流で、発展しようとして努力をして、なる程努力したら、努力したがた、あるかもしれんけれどもです、それが そうに親先生の仰る通りにいかん、とゆうような事ではね今日の御理解のところから、頂いてです、いわゆる、天地の中には何のこだわりも無い、障りも無い、ならばです、本当に、私共の心にも障りの無い、
 自由無碍な、大きなおかげの頂けれる、受けものとゆう事は、私共が愈本気で、馬鹿と阿呆にならして頂く事だ、それは対人間関係だけの場合ではない、対神様、対取次者の場合でも、そこのところをですねえ、馬鹿と阿呆になる事だと、はゝあ、その事が 蚊取線香を縦に立てて、見せて下さったのは、その事だったと昨日私は、思わせてもらった。
 これは、どうでも合楽で、本当に中堅と云われる程しの、愈の時には、本当にこの人達がおらなければ出来ない、とゆうような、メンバ―が有りますよね、いくらも
 ですから、こゝ迄来ているんですから、惜しいです、ですから皆さんが、例えばそこ迄いつてないにしても、今日私が皆さんに申しますところを、本当にそうだと、ひとつ合点して下さって、皆さんがね、云うならば たろうた、横にも縦にもたろうた、云うなら大きなおかげの、受けものを頂いて、こうゆうおかげの受けものが出来れば、こうゆうおかげが受けられると、ゆう事実をね、そうゆうあかしをね、立てていって下さる、ひとつ腹を決めて頂かなければならない。
 今日は いつもが自分の心の中に、天赦日、、神様に許されている、とゆう思いで、日々生活が出来るようなおかげ、金光様の御信心させて頂いて、まず第一に教えられるところが、今日の御理解ですが、そうゆう迷信的なものから、脱却するとゆう事と、同時にそこからね、いわゆる自分の心にも、ひっかゝりがないおかげ、いわゆる、自分の心にいつも、神様に許されておるとゆう、安心のおかげを、頂かせて頂く為に、今日、私は横縦たろうた、いわゆる蚊取線香に、ならせて頂こうと、ゆうような事を申しましたですね。
                        どうぞ。